昭和50年08月20日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 昨日の朝の御祈念に、今東京の支部長であります、久保山稔さんが大祭に帰って来ております。で確か今日帰るんでしょう。昨日お参りして来ておりました。丁度私が八時半に下がるまで、こちらで御理解を頂いたりしていましてから、一緒に朝食をさせて頂いて、まぁ色々信心の四方山話ばかりではなくて、まぁ東京の様子を色々聞かせて頂きました。おかげを頂いて、大変もう繁盛のおかげを頂いておるというお話の中にでした。親先生昨日の言葉でした。
 昨日の言葉のお話の中に、お月次祭の時の私のお話の中に、久富正義さんと、秋永文雄さんのお話が出ました。私の皆さん聞いて下さったですね。お客様は神様がお引き寄せを下さると言う。神様がお引き寄せを下さったのだから、そのお客様を大切にするというお話をしておりました。それはお客様だからみんな良い、為になるお客さんばっかりじゃない。中には為にならない様なのもあるけれども、これは深い神様のご深慮による事だと思うから、どういうお客さんに対しましてもです。
 大事に取り扱わして頂くと。と云う事は神様が、指し向けて下さる修行ならば。例えそれが良い事悪い事。言うならば有難い事、いうなら有難くない事もあるけれども、神様が指し向けて下さったのだから、それを言わば合掌して受ける。それを修行と思うて頂くと言う生き方を、段々身に付けていきます所から、お客さんの全てまたは全ての事柄に、言うなら御事柄として、御の字が付けられる。
 全てのお客さんに、いわゆる神様がお指し向け下さった、大事なお客さんとして取り扱う事が出来るという話を致しましたですね。で昨日その稔さんがその事を言うんですよ。親先生もう本当に、ご無理ごもっともの話をいただいたけども、先生あの事だけは、どうも頂けませんとこう云う訳なんです。どうしてかと私が聞きましたら、そら成程為になるお客さんとでないお客、大抵までならね頂きます。
 そしてねやっぱ、心にお願いをさせて頂よりますと、為にならんとは、段々足が遠うなって見えない様になります。東京でお寿司屋さんをしてるわけですね。ですから伴うてお酒なんかもやっぱり、一緒に売ってるわけです。「ならどげんとがいよいよその、これは頂けんとか」と、私が聞きましたらね。金光様の先生、私の方が金光様の信心をしておると云う事は、合楽の信者と云う事を知っておられる。ですからその、まるきり自分が来てやると、店が繁盛するごたる風で来なさる。そしてもう酒癖が悪い。
 まぁカウンターで召し上がりよるから、他のお客様にも迷惑するから、もう結局裏の方へ、お座敷の方へと言うてその、まぁ一遍代わって貰う。それでも中々何ち言うですか、尻が長いと言うですか。まぁ酒癖が悪い。そして勘定と言う事になると「もう先生、良いですよ」というと、もうそれをいうなら良い事の様にして、いわゆる濡れ皿ねぶる訳です。私がね昔から警察官と金光様の先生は、もう濡れ皿ねぶる。もう只で飲むもんのごと思うとる。決して警察官なんかでも、立派な警察官もおられます。
 金光様の先生にも立派な先生も沢山おられますけれどもね。まぁそういうその傾向があるわけです。もう信者がしてくれるもんとこう、当てしとる訳です。まぁ金光様の信者じゃからと言うて、金光様の先生が来て下さるのは有難いけれども。お金を頂かんぐらいの事は良いけれどもです。とにかく他のお客さんに迷惑する様に酒癖が悪い。だからこれだけは頂けませんとこういう訳です。これはね、おかげを受けると云う事と、御徳を受けると云う事は、もう根本的に信心が違うです。
 「世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるという」踏むと言う程しだから、いうならば、汚いところへ落ちておると云う事でしょう。確かにね理屈の上から言うと、畳の上に落ちておる、いうなら人の足で踏み付けた、畳の上に落ちておる。例えば飯粒なら飯粒をです。拾う事は普通からいうなら、常識的にいうならば、非衛生的だと云う事で御座います。私が修行中の時分にあるご本部参拝の時、秋永先生のお母さんも一緒でした。そすと秋永先生の叔母さんに当たるという。
 初めてご本部参拝をされた方と一緒に参られた。いなかずの高山さんのお母さんです。私はあの時分にその列車の中に、ご飯粒が落ちておったりすると、それを全部私が拾うて歩いたんです。勿論格好もそれこそ夏もなければ冬もない、夏服一着でしかももう、何年着とりますから、擦り切れてしもうておりますから、ここはこう折り曲げて、家内が綺麗にこう、少し短くしてからしておる様な洋服を着て。
 それでも私は下着だけは毎日洗いました。けれどもその、上着だけはねもう何年間、いうならば夏も冬も夏服一着で過ごさせて頂いた時分ですから。もう見るからどこのルンペンだろうかと。靴は破れ靴を履いとるし、本当にだろうかとこう思います。そしていうなら、汽車の中でその落ちておる、いうならご飯粒でも何でも推し頂いて頂いて」おりますから、そのお婆さんが、「あの人はわけもんのくせ、どうしてあげな乞食のごたるこつさっしゃるじゃろうか」と言うて叔母が申しましたと。
 ぞうたんのごとあっちはね、もうそれこそ素晴らしい熱心なご信者さんで、何時か椛目から、いわゆる当時馬渡でしたから、馬渡にお話に行かして頂く途中に、牧の辺りでその道路にご飯粒をあの洗い桶の中の水を、パーッと表に振ったんですね。まだその時分はアスファルトじゃなかったから。そのご飯粒がね道路一杯に、真っ白なるくらいに、こうやってあの、振りまいてある後を、私が通りました。
 それで私がそれを、一粒一粒拾うて行った話を。私はそのお話に行った時に、秋永先生所でさせて頂いとりましたから、例えばそう云う事でも、絶対当時は大坪さんは拾うて行かれる。是はまぁ私がもうそれこそ物心付く少年時代から、こりゃ続けておる事ですから、もう穀物はもう叔母がもうとにかく。畳の上に落ちとるご飯でもです。頂かんと目が潰れる。足が額口につくち言うて言いよりました、お食物をお粗末にすると。いわゆる三宝様を踏むな。三宝様を踏むと目が潰れると言う様な風に言っておりました。
 ですからもうこれは、どこへ参りましてもね。あの道路でそらもう大豆でも、米でも麦でも、落ちとるとを必ず拾うて、ポケットの中にこう入れる。だから私のポケットの中には、何時もあの米粒やら、麦粒やらが入っておりました。これは不思議でたまらんですけれども、これだけはもう、頂き抜いて来てるんです。沢山こぼれておる時には。
 一粒か、二粒、三粒でも推し頂いて言うなら、その印を現して通る。これはもう私の子供の時からでした。一遍ある運動会の時でした。秋の運動会秋でしたから。あの石灰でこう白い線を運動場に引きますよね。それがしとるもんですから、あのそういう石灰の粒がね、落ちてたんですよ。それが私にはご飯粒じゃない、米粒に見えたんです。だから拾うてから口入れたところが、石灰だもんですからもう。
 口ん中がそういう失敗というか、そういう思い出も御座いますくらいに、私は米粒と見たら、それを頂かなければおれない。こらもう小学校の時ですからこれは。やっぱその時分から、それをやっておった事を思うです。で、それをやっぱ今に続けておるのです。おかげを頂くはずと自分で思います。ですからさぁご飯例えば。もうそれこそあの神様が言うて下さると下水のね、長くは続きませんでしたけども、そう言う事は。この色んな汚いものと、汚いものとの間にね。
 ここに落ちとると、普通では気も付かんごたる所に、あっあそこにご飯粒が落ちとると言うて、神様が知らせて下さるんです。はぁ拾えち言うこつばいなと思うて、そこん所をこうこうしてから、拾うては頂きました。こげな乞食の様なと言うでしょうか。まぁ言うならば非衛生的なというでしょうか。今の言うならば若いお母さん達は、もし子供が下に落ちたんば拾うて食べよると、あぁ汚いそんなもん頂いてち言うて怒るに違いありませんよ。けれどもねそれはおかげを頂いていく道なのです。
 お徳を頂いていく道というのは。所謂落ちているご飯粒であろうが米粒であろうが、推し頂く心なんです。私が皆さんが始めて私と、初めて会った時に一番初めに頂いた御理解が、この四十五節の最後のところにある。慢心を出すな慢心をするなと。始めて私にまぁ東京でもそれこそ何というですか。まぁ自分では、自分の右に出るものはおるまいと思うくらいに、仕事の上にでも自信を持っておる。それを東京風に、私に握って食べさせてくれる時には、私があの。
 「こらあんた、いっちょん美味しゅうなかじゃんの」ち私が申しました。もうそん時もう頭に来たと。けれども親先生、一番初めにお会いして一番初めに、あの様なおかげを頂いた時に言われた、親先生から頂いておる、あの慢心をしてはならないという事と、最高に美味しいと思うておるのでも、「こらいっちょん美味しゅうなかじゃんの」と言われた事だけは、忘れられませんち。
 だから自分は自信たっぷりで出しておるけれども、果たしてお客様いかがでしょうかという気持ちで、何時も握らせて頂くと。少し調子が良くなって来たから。慢心はしない。もうこの事だけは、私の生涯忘れる事の出来ない事だと。慢心をしちゃならん、慢心をしてはならぬとこう思うておると言うて、何時の時でも、そう申します。それは確かに。頂ける事もありゃ、頂けない事もあるけれども。
 普通でいうその頂けない所、それを頂くのが、御徳を頂いていく道であり、それを、合理的にです。頂けんもんな頂けんと、それはしても問題はない。そうでもいいのです。けれども、その頂けないものを推し頂く。その向こうに神様の下さろうとするおかげが、もしありとするならばです。矢張りこれだけはと思うけど、そのこれだけを大切に、やっぱりしていかなければいけないと云う事が、皆さん分かりますですね。
 人間は身代が出来たり、先生と言われる様になると、頭を下げる事を忘れる。身に徳が付く程かがんで通れと。自分の身に徳が付いて来る、これはかがんで通れと言う事は。徳を受けたら、いわゆる実が稔って来たら、これは自ずと頭は下がる筈であります。稲穂なら稲穂がです実が稔って来ると、稔って来るだけ頭を下げていきます。人間も徳がつくほど、ここでかがんで通れと仰る所が、今まで意味が分からなかった。
 徳を受けて行きよるなら、かがんで通れと言われんでも、自ずと頭が下がるもんだと思うておった。ところが私共がです。どんなに謙虚にです。いうなら自分で徳を受けとると、例えば思うておる人がです。もし頭が下げられないならばです。それは本当のものじゃないという事です。人間と言うものはです、もう何時もその事を心掛けとかねばならないと言う事を、私は今度の、私の母のお国替えによって分からせて頂いた。
 先代の時に御霊様にご挨拶をさせて頂いておりましたら、粟の穂が、もうこんなにして頭を下げておる所を頂いた。ははぁ是が母の信心だっただろうかなとこう思うて、有難い事だなぁと思うておったら、それがなんと似ても似つかない。形は粟の穂の様にしておるけれども、雑草によくありますが、粟の穂と同じ様な、やっぱ形だけこげんしとるとがあります。それに変わって行く所を頂いた。
 母がもし言葉をもって、私に話しかけるならばです。先生私は本当に生前本当の事も出来なかったのに、本当の信心も出来なかったのに、本当の事が出来たかの様に、此の様に素晴らしい洗礼をして頂き、また明日は告別式も、またして頂くであろうが本当に勿体ないと、私に言いかけておるように思われた。そこで今日は皆さんここん所を聞いて頂きたい。身に徳が付く程かがんで通れとこう仰るが。人から本当に先生と言われ、人からいうなら大将と言われる。
 だから言うならもう、徳が付いた様に思う訳です。実際を言うて、本当の徳を受けると言う事は、受けたらね身を言うたらもう、かがんで通らんでもね。もう自ずから頭が下がって来るのだ。私は母の一生母の信心を。見たり聞いたりして来てからです。始めに御心眼に頂いた、成程さもあろう、そんな粟の穂のような信心を、母はしておったんだなぁと思わせて頂いた。ところがあにはからんや、実はそうではなかった。いうならば、偽物の様なものであったと。本当のものではなかったと。
 そこで母は、本当の信心も出来てもいないのに、本当な信心が出来たかの様に、取り扱うて貰う事が勿体ないと言うておるだろうと思うて、その次にです、私自身も思うた。みんなが先生、親先生、または大先生というて頂くが。自分自身が自分で一番分かるんです。出来ておらん事が、本当なものでない事が自分で分かる。本当なものが出来とるなら、もちっと頭が低う下がらなければならんのだ。
 頭が下がらんから、精進したり努力をしたりして、何時も頭を下げておる心持を作る事に努めて行かないと、上の方に頭が上がってしまう。実が稔れば稔る程、頭が下がるというのに。みが本当の物の様に見えるけど、本当でない証拠に頭が下がらんじゃないか。下がらんから私共はです先生と言われたり。身代が出来たりして来ると、頭を下げる事を忘れてはです。言うなら謙虚な心持を忘れたらです。
 何時の間にか上にぴょんと跳ね上がってしもうとる。それではね、恐ろしい。それでは、天で頭を打つ事はあるまいと思うけれども、天で頭を打つのが怖いというておられる、その怖い結果にならなければならないのだ。私はここん所が身代が身に徳が付くほど、かがんで通れと仰る意味が分からなかったけれども。身に徳が付く程かがんで通れるものじゃと仰っておられれば分かるけども。
 身に徳が付く程かがんでと、やっぱりかがむ。かがむと言う事を、低姿勢になると言う事を、謙虚になると言う事を、精進しておらんと人間は、上の方に頭が上がると言う事。それは何故かとほんな物じゃないからだと言う事。一生私共は本当なものと言う様な物は、頂き得ないかも知れない。けれどもそういう生き方をする人の上にです。本当な事が出来たかの様に、おかげを下さる所に神様の私はお心があると思います。なら今現在合楽の教会長としてです。
 皆んなから沢山の人から先生、先生あぁたのおかげで助かりました。こうとこう言われると、本当に自分の信心で助かったごたる思い方が起こって来るのです。その起こる事がすでにです。ほんなもんでない証拠です。そうじゃないそうじゃない。おかげを下さるのは神様なんだ。私ぐらい出来とらんもので、人が助かる筈はない。それを何時も思いよらんとやり損なう。そこで愈々その本当なものを目指させて頂いて一生掛っても、本当なものは頂けんでしょうけれども。
 本当な物を愈々目指させて頂いてです、行く時に、大徳を受けたかの様なおかげが頂かれると言うのではなかろうかと、この所から思うのです。今日は皆さんがおかげを受けると云う事と、生き方とお徳を受けると云う事は、もう自ずから生き方が違うと云う事を私の修行時代の話と、東京の久保山支部長のお話とを聞いて頂きました。そして身に徳が付く程かがんで通れと言われる、教祖様のそのお心が、今日初めて分かった様な気がする。本当言うたら徳が受けられる。
 本当の徳この人は徳者だというても徳者自体は、それは徳とは思ってはいない。徳者なら徳者になる程、それを思ってはいないのじゃなかろうかと。三代金光様をしてです。あぁいう素晴らしいご信心と、境地を開いておられる金光様がです。お詫びばかりをしておると仰るのだから。だから結局徳も受けておらんのにです。徳を受けたかの様な思い方をしておる姿を、私は慢心だと思います。私共はどれ程本当な信心をしておる様であっても、神様の目からご覧になったら、お粗末だらけに違いはない。
 言うならば、本当なもんじゃない。けれども願いが求めておるものがです。より本当なものを頂こう。より本当なものにならせて頂こうと、精進させて頂いておる、その姿がです。神様が言うならば、そういう姿をめでたまうというか、そういう姿をお喜び下さるというか。だからいくら身代が出来たって。如何に人から親先生大先生と言われる様になったからと言うてです。
 自分が徳がはぁだいぶんおら、徳が付いて来たなと。沢山な信者が出来て来る様になる。はぁ俺もやっぱ、だいぶん徳が出来たと、もし思うたら、もう天で頭を打つ前提だと思うて間違いはないです。そこで私共はです私の母の御霊に教えられた。言うなら本当なものでもないのに、此の様なおかげを頂いて、本当な事が出来ておったかの様に、此の様に取り扱うて頂いて勿体ないと言う、愈々勿体ないの信心が出来なければならんと云う事になりますですね。
   どうぞ。